人は生きている限り、死と向き合わざるを得ない。両親、伴侶、家族、親族、友人、憧れの人物などが旅立ったときである。それは１０代のときもあれば、仕事が面白くなってきた２０代、働き盛りの３０代、４０代。さらには定年が見えてきた５０代、なかには還暦を過ぎてから死を身近なものとして意識したという人もいるだろう。死は残されたものに考える力と、生きていくうえでの指針や方向性を投げ掛けてくれる。

Ｔさんもそんなひとりだった。享年７０。昨年８月に肝硬変であっけなく逝ってしまった。一部では名前が知られていたので新聞の死亡欄に載ったことから、年賀状のやり取りだけの付き合いをしている知人がメールを寄せてきたのを覚えている。

Ｔさんとは同じ会社だった。年齢は１０歳ほどＴさんが先輩である。大阪本社に勤務していたＴさんとは職場は離れてはいたが、波長が合って３０年の付き合いになる。折に触れて酒を飲んだ。どちらもバッカスの威をかりて大言壮語するわけではなく、間違っても談論風発というふうにはならない。お互いの近況をぽつり、ぽつりと語るだけである。それでも窮屈な感じがなかったのはなんだろう。二人とも夢を語っていたからかも知れない。バーの止まり木で肩を並べて飲んでいるとき、ふっと向けてくるＴさんの目顔。これらのちょっとした仕草が繋ぎ合わさってひとつのストーリーとなって走馬灯のように駆け巡っていく。

出張で大阪に出掛けたときは、知恵を借りたくてよくＴさんに連絡した。「君、いま、どこにいるの」。ＪＲ大阪駅の構内というと途端に声が弾む。指定されたところにいるとＴさんが含み笑いを顔にためながらやってくる。「どう、元気？」。いつもこんな感じだ。「ええ、まあ、相変わらずです」「なら、いいが･･･」といってふふっと笑う。

いまでも謎なのは人脈が豊富で引出しが多かったことだ。胸の内で「迷ったときのＴさん」と呼んでいたぐらいで、仕事の道順をつけてもらって助けられたことがどれほどあったか。口癖は「ちょっと、そのへんで軽く飲もうか」。これが重いのである。一軒の店にじっくり腰を落ち着けて飲むタイプで。暖簾を下ろす時間帯になると「君、うちにきなさいよ」。強引な響きが込められた誘いを断ることができなくて、予約をいれてあったホテルに宿泊しないでＴさん宅に流れて朝を迎えることも珍しいことではなかった。

会社を定年退職後、Ｔさんは関西の私立大学で教鞭をとっていた。専門は行政学。教えることが肌に合っていたのだろう。若返った感じがして、まさに、水を得た魚のごとし。会社にいたときにはとんと見られなかった躍動感が伝わってきた。贔屓の小料理屋が京都・河原町三条にあって、教員になってからはその店が待ち合わせ場所である。うなぎの寝床のような造作の店で一見ではなかなかはいれない。暖簾をくぐると教え子たちに囲まれて上機嫌だった。顔ぶれはいつも違っていたので、分け隔てなく声を掛けていたのだろう。

Ｔさんが亡くなったのは大学を定年で辞めた直後だった。一周忌に向けて教え子たちが中心になって追悼集を編集している。３０００字ほどの文章を依頼されたが、夫人をとおして丁重に断った。「会社勤め、大学教員、そして、僕にとってはこれからが第三の人生。ジャーナリストになろうと思っているんだよ」。これが最期の言葉だった。Ｔさんのことを書きたいと思っている。

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