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日本国憲法と象徴天皇制その1~敗戦からポツダム宣言の受諾までの経緯

2019/6/4 

2019年5月1日、第125代明仁天皇が退位し、126代徳仁天皇が即位しました。天皇の退位は憲法が施行された明治以降では初めての出来事であり、かつ日本国憲法の施行されている現代では、今回一連の天皇陛下の退位並びに即位の儀式は「国事行為」として行われました。
 それは象徴天皇制を建前とする我が国では天皇は自ら政治行為は出来ません。そこで、1代限りの特例法による内閣の助言と承認に基づく、国事行為として今回の退位並びに即位の儀式は行われました。なぜ、そのような形式にこだわったのでしょうか?天皇の身分にかかわる行為だから天皇の意思と権限で行わってもよさそうです。

 明治憲法下では天皇主権を根本原理とする国家体制でした。が、日本国憲法下では、国民主権の下、天皇は国民の象徴という存在、即ち象徴天皇制へと変わりました。従って、天皇は政治に介入できなくなったのです。そのために内閣の助言と承認に基づく国事行為として行う術しかありえなくなったのです。

ポツダム宣言で問題となった2つの条項

 こうした変遷を経るにあたって重大な問いかけとなったのが、ポツダム宣言なかんずく次の2つの条項でした。

「日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。(ポツダム宣言第10項 現代語化)」

「連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。(ポツダム宣言第12項 現代語化)」

 特に日本がポツダム宣言を受諾して降伏を申し入れる際、特に深刻な問題となったのが、ポツダム宣言12項を受け入れる際に日本の「国体」が護持されるかどうかということにありました。

ポツダム宣言12項と日本の「国体」

 「国体」という言葉は、明治憲法下では特別に重要な意味を持つ言葉でした。そして3つの異なる意味で用いられていました。

1 天皇に主権が存在することを根本原理とする国家体制
 これは明治憲法第1条において「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と具体的に書かれていることからも分かります。

2 天皇が統治権を有するという意味
 これは明治憲法第4条で天皇は国家元首にして、統治権を有すると規定することからも明らかであると同時に、治安維持法で初めて成文化されました。

3 天皇を国民のあこがれの中心とする国家体制
 この意味は、きわめて倫理的・道徳意味で用いられることが多いでしょう。日本国憲法の草案審議の過程で憲法問題担当の金森徳次郎国務大臣が、「国体」とは天皇をあこがれの中心とする国家体制を意味し、その点では明治憲法と日本国憲法との間に相違はないので、日本国憲法の制定によって従来の国体が変わるわけではないという趣旨の説明に用いた「国体」もここで言う国体の意味と同じとされています。
 そして、ここでいう「国体」がポツダム宣言の受諾によってどうなるのかが大議論となったのです。

ポツダム宣言受諾の経緯

 1945年8月10日、日本政府はポツダム宣言の受諾に当たり、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」という留保をつけて受諾する意思を連合国側に伝えています。
 
 これに対し、当時のアメリカ合衆国のバーンズ国務長官から次のような回答がなされました。
1)降伏のときより、天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官の制限の下に置かれるものとする。
2)天皇は、日本国政府、および日本帝国大本営に対し「ポツダム宣言」の諸条項を実施するために必要な降伏条項署名の権限を与え、かつ、これを保障することを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸・海・空軍官憲、および、いずれかの地域にあるを問わず、右官憲の指揮の下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、また、降伏条項実施のため最高司令官の要求するであろう命令を発することを要請される。
3)日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜、および、抑留者を連合国の船舶に速やかに乗船させ、安全なる地域に輸送すべきである。
4)日本国政府の最終形態は、「ポツダム宣言」に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである。
5)連合国軍隊は、「ポツダム宣言」に掲げられた諸目的が完遂されるまで日本国内に駐留するものとする。
ここでは1が重要とされています。この内容は、ポツダム宣言12項と趣旨がほとんど変わらないので、大激論がかわされたが、「御聖断」と言われる天皇の最終的な決断によって全面的に降伏することになりました。但し、日本側としては、国民主権の採用を必ずしも要求するものではなく、国体は護持できるものと考えて受諾したと言われています。
 こうして1945年9月2日、日本は降伏文書に署名します。その結果、日本はポツダム宣言、バーンズ回答文書及び降伏文書のすべての拘束を受けることになったのです。

(文責:定年生活事務局)
参考文献:芦部信喜『憲法学Ⅰ』(1992 有斐閣)



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