シリーズ お江の史跡を歩く(2) 清水克悦
2011/8/3家光の乳母・春日局の拝領地を歩く
歴史ライター清水克悦さんが、お江ゆかりの地を歩くシリーズの第2回。
今回登場する春日局は、お江にとって次男家光の乳母だったのですね。
では、ゆっくりお楽しみください。春日局は、明智光秀の重臣・斉藤利三(としみつ)の娘である。子供の頃は、謀反人の娘として世間の冷たい目にさらされながら育った。母方の一族・稲葉重道の養女となり、その子・正成に嫁したが、慶長9年(1604)、京都所司代・板倉勝重の推挙を受けて、江戸に下向し、家光の乳母となった。家光の乳母になった経緯については、京都粟田口の高札で乳母募集を見て応募したとか、父・利三と親交があった絵師の伝手(つて)など諸説がある。
春日局の菩提寺:麟祥院・山門(開門は午後3時まで)春日局が養育を託された家光は、2代将軍・秀忠とお江の次男として生まれた。長男は早世しているので、徳川家では世継ができ期待が大きかったのは、いうまでもない。家光が3歳になったとき、弟・忠長が生まれた。利発で、愛くるしい。春日局には、秀忠夫妻の愛情が家光から忠長に移り、寵愛が忠長に偏っているように見えた。嫡子世襲制が定まっていないこの時代のこと、忠長にも世継への可能性があった。事あるごとに2人は比較され、虚弱体質で、なんとなく鈍いパットしない家光は、いつも忠長より劣ると見做され、春日局は傷ついた。春日局と弟・忠長を偏愛するお江との間に世継をめぐって軋轢が生じたのは、この頃だろう。大奥も家光派と忠長派に分かれて対立するようなこともあった。
家光はお江の愛情が薄いことを悩んだのか、自殺未遂事件を起こしてしまう。家光の将軍の座が危うい。危機を感じた春日局は、伊勢参りと称して江戸城を抜け出すと、駿府の家康に家光の将軍継嗣を直訴する行動に出た。こんなことが出来たのか、疑問だが、「春日の抜け参り」といわれる家康への訴えが、功を奏した。家康は「嫡流による世襲制がよい、そうすれば世継の争いもなくなる」と考えていたことから、家光の継嗣が確かになった。
家光将軍を実現させた功績は大きく、家光の信頼は絶大で、お江の死後は、家光のバックアップもあり、江戸城大奥の総取締りとして威勢並ぶ者がなかった。春日局も家光の信頼にこたえた。晩年、家光が疱瘡を患って危篤状態に陥ったとき、薬断ちを誓い、最後まで服薬しなかった話はよく知られている。「春日」の地名は、春日局が家光より拝領した土地である。お付の下男30人の住まいとしたというが、380年ほど前のこと、春日はまだ原野。初め春日殿町とよばれていたが、のちに春日町(江戸時代から昭和40年までの町名)となった。後楽園駅に隣接する礫川公園には、近年、春日局の像が建った。また、拝領地になったとき、その鎮守のために稲荷神社(本郷1丁目33番17号)が祀られたが、春日局の出世にあやかり「出世稲荷」と呼ばれ、現在も町の人にあがめられている。
家光が春日局の献身的な働きで将軍になった一方、弟の忠長は、お江、秀忠の死後、領地没収、幽閉の身になり、28歳で自害させられた。両雄並び立たずである。
余り知られていない忠長の菩提を弔う昌清寺から春日局の墓がある麟祥院へ歩いてみた。歩く距離は2kmほど。残暑厳しい日中でも、熱中症の心配もなく歩けるシニア向きコースだ。文京区の地図を広げると、都営三田線の水道橋駅の東側に昌清寺、昌清寺の北東に、春日通に面して麟祥寺がある。麟祥寺は千代田線の湯島駅に近い。大まかな地図を頭に入れてから、水道橋駅を出発した。出口A1から地上に出ると、白山通りに面して「ニューヨークコーヒー」がある。この手前の忠弥坂を上る。上りきって左折すると、分岐に昌清寺の道標が立っている。このあたりに、油井正雪と結託して幕府顚覆を謀った慶安の変の首謀者である丸橋忠弥の槍道場があったという。
昌清寺は、家光に代わって徳川将軍家を継いでいたかも知れない人物ゆかりの寺としては質素だ。真相はともあれ、将軍家が触れられたくない忠長の行状、誰もが忘れたい、かかわりを持ちたくない忠長の一件だから、寺はごくごくありふれた寺だ。忠長が幽閉先で自害させられた後、妻のお昌の方は剃髪し松孝院と号した。乳母のお清も剃髪し、お昌の一字をもらい、昌清尼と称した。松孝院は忠長の菩提を弔うにあたり、古い草庵があった地に堂宇を整え昌清寺とした。謀反人扱いされた忠長を、妻とはいえ公には供養もできないため、自分に代わって乳母のお清に昌清寺で忠長の供養をさせたという。お昌は織田信長の次男信雄(のぶかつ)の孫。信長の曾孫である。正室となったのは忠長22歳、お昌15歳の時といい、結婚生活は僅か数年だった。
忠長ゆかりの寺:昌清寺利発だった忠長は2代将軍秀忠と母のお江に可愛がられ、後継と目されていた時期もあった。家臣たちも、秀忠とお江の顔色を伺う。忠長は子供心に将軍を継ぐのは自分だと期待したとしても不思議ではない。お江たちにとって、家光も忠長もわが子で、可愛さにかわりはあるまい。忠長としては、世継ぎを家光に奪われた気持ちが強かったのだろう。増長させるような接し方に問題があったのは確かだ。19歳のとき忠長は、それまでの甲斐に加えて、駿河、遠江の両国を与えられ駿府55万石の城主となった。参勤交代の西国大名たちは、帰国するときはご機嫌伺いに駿府に登城した。忠長の最も輝かしい時期だ。しかし、駿府にもう一人将軍がいるようなもので、家光にしては面白くない。しかも、大坂城主を望んだことが家光の怒りに触れた。領地は没収され、高崎城に幽閉されたのは、2人の父の秀忠が病没した翌年のことである。幸せって、何だろう。人によって尺度が違うから、55万石の大名でも満足できなかったのだろう。
幽閉の理由は、殺生禁断の駿河浅間山で多数の猿を捕殺したこと、家臣を理由もなく殴ったり、手討ちにしたりの凶暴な振る舞いが原因ともいう。だが、真相は闇。本当のところは分からない。家光を凌ぐ素質があり、将軍の座に限りなく近い存在であったことが悲劇を招いたのだろう。自害に追い込まれたのは、寛永10年(1633)、忠長は28歳であった。忠長を抹殺する行為を正当化するため、決定的な罪状が必要だった。そこで、忠長陰謀説が捏造された。秀忠の死後、諸大名へ「将軍家光を亡きものにして、忠長の御代にしようではないか」という怪文書が流れた。将軍家に不満を抱き続ける存在は、いずれ反乱の拠点として悪用されると危惧していた幕府が、芽を摘み取るための策略だろう。
現在、墓は高崎市の大信寺にあるが、謀反の罪のため、供養も墓石を建てることも許されず、松の木1本が墓の印であったという。免罪されたのは、43年後の4代将軍・家綱の時である。昌清寺の本堂には、忠長とお昌の位牌が安置されている。また、墓所には、清昌尼の墓があるので、お参りした。
春日局の墓がある麟祥院へは、給水所公苑に沿って歩き、本郷通りの本郷2丁目交差点を渡り、春日通りに出会うまで、北に歩いた。春日通りの本郷署前を右折すると、麟祥院である。午後3時で閉門になるから、注意しよう。寛永元年(1624)に引退した春日局は、隠棲の場としてこの地に住み、仏門に帰依して庵を創建し、死後に菩提寺とした。麟祥院の名は、春日局の法名・麟祥院殿による。境内の奥まったところにある墓へは、道標が立ち、石畳が続いている。無縫塔(むほうとう)といわれる卵型の墓で、塔身の四方に孔が開いている珍しい墓である。
麟祥院境内:春日局の墓春日通りを東に下っていくと、千代田線の湯島駅がある天神下交差点に出た。
(第2回終わり)お江の史跡を歩く
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